2022年度 07月の園長だより
「プラテーロとわたし」
プラテーロよ。おまえもほかのこども達と一緒に保育園にいっていたなら、さぞかし、ABCを覚えたり、棒みたいな字を書いたことだろうね。おまえはあのろう人形のロバ…ガラス越しに見ると、みどりの牧場で、バラ色やこがね色にかがやいている人魚のなかまの、造花の冠をつけたロバ…のように、利口になっていたろうに。また、パーロスのお医者さんや神父さんより、賢くなってもいただろうにね。プラテーロ。だけど、まだ4歳にしかならないというのに、おまえときたら、なんて大きく、なんて不格好なんだろうね!おまえはどんな椅子にすわるのかい?どんな机で書くつもりかい?どんなノートブックでも、どんなペンでも、おまえには、間に合わないだろうね?聖歌を合唱するときには、いったい、どんなパートで歌うのかい?だがね、さかな売りのレイエスみたいに、黄色いひものついた、ナザレ・イエズス会の紫の尼僧服を着たドミティーラおばさんはプラタナスの中庭の片隅に、少なくとも二時間は、おまえをひざまずかせておくかもしれない。あるいは、乾いた長い竹で、おまえの足をぶったり、おまえのおやつのマルメロの実を、食べてしまうかもしれない。また、燃えている紙を、おまえのしっぽに押しつけ、おまえの耳が、まるで雨降りの日の車大工のせがれの耳みたいに真っ赤に熱くなるようしむけるかもしれない。いやいや、プラテーロ。おまえは私といっしょにおいで。私は、おまえに、花やお星さまのことを教えてあげよう。花や星は、のろまなこどもを笑ったりしないから、おまえのことも笑いはしないだろう。おまえがロバだからといって、川舟の窓みたいな赤と青でふちどりした大きな目と、おまえの耳の二倍もある耳のついた頭巾を、おまえにかぶせたりはしないだろう。(プラテーロとわたし 春・夏 「保育園」より) ※プラテーロ:ロバの名前
ノーベル文学賞を受賞した(1956年)フアン・ラモン・ヒメネス氏の作品「プラテーロとわたし」。10年以上前のことですが、お世話になっていた造形の先生から紹介されて本を購入し、読んだことがありました。しかし、当時の私には今一つピンと来ませんでした。先生から感想を聞かれたのですが「うーん…よくわかりませんでした」と答えると「そうか、まだその時期じゃないんだな。それでいいんだ。いつか、わかるから」と笑って言われました。そんなことを思い出しながら先日、読み返してみました。読み進めていくうちに、私はある種の衝撃を受けました。そして、当時の自分を少し恥ずかしいとさえ思いました。なぜなら、この本で語られていたのは日常のあるがままの風景・心情がいかに美しいものであるか、だったからです。そしてその語られる言葉は淡々と少し寂しげであるけれど、だからこそ優しさにあふれていました。これを読んで何とも思わなかったのか…。私はなんだかんだ言いつつも、心のどこかで、こども達に何かができるようになること、何かスペシャルな技を体得させることを望んでいたのかもしれません。そして、結局は他者と比べ、他人よりも優位に立つことが良いこととして優先順位を高く考えていたのかもしれない…そんな思いに駆られました。
先日、年長さん達と川遊びをしてきました。川で思い切り遊んだ後、大自然の中、みんなでお弁当を食べました。毎回同じことを思いますが、言いようのない幸福感に包まれる感じがしました。何ができるとかではなく、一番重要なのはそこに大切ないのちが存在しているということ。すべてを受け入れてくれる大自然を前にすると、そのような思いになります。やはり、私は青梅に来て良かったと思っています。青梅のこども達と青梅の自然が私を変えてくれたのですから。この素晴らしい環境に心から感謝したいと思います。(園長)
大自然というものは、尊敬されたときにはじめて、かがやくばかりの永遠に美しいその素直な姿を、心ある人にみせてくれるものなのだ。(プラテーロとわたし 春・夏 「闘牛」より)