2022年度 06月の園長便り
「“寄り添う”ということ」
先日、保育の研修会で精神科医の先生から「不安は伝染する」というお話を聞きました。こんな実験があるそうです。まず、ザリガニを水槽にいれて棒でつつきまわしザリガニに不安を与えます。次にそのザリガニを取り出し、別のザリガニを同じ水槽に入れます。すると、そのザリガニは何もされていないのに不安そうにびくびく動くのだそうです。これは他のザリガニへ危険を察知させるために何らかの分泌物を出していると考えられるようですが、見方によっては「みんなが助かるように」不安を共有しようとしているようにも見ることができるということです。そう考えると、不安というものは一人で抱えるものではなく、みんなで共有するもの、なのかもしれません。
私の父は教会の牧師でした。40年近く同じ市の同じ町でボーイスカウトや地域の活動をしながら、牧師をしておりました。そんな父も、今から15年前に天に召されました。後任の牧師先生も一生懸命牧会をしてくださいましたが、現在は無牧(牧師のいない教会)です。教会員の方々は高齢の方が多く、不安の声をよく耳にします。そのような中、他の教会の牧師先生が代務者として折々に来てくださっています。その先生の手帳を見て驚きました。教会員の方々の名前がびっしり書かれた小さな一覧表が貼ってあったのです。そして、その牧師先生は「これを見ながら皆さんのこと一人ひとり、お祈りしているんです」とおっしゃっていました。とても嬉しく思いました。私の知らないところで、私のことをお祈りしてくれる人がいる、そう思えただけで心が軽くなった気がしました。
皆さんも今まで生きてきた中で、何かを祈ったことがあると思います。神社で、お寺で、はたまたスポーツ観戦中に祈ったこともあるかもしれません。「〇〇でありますように!」と願いを祈る。でも、よくよく振り返って記憶をたどってみると、一番多いのは我が子への祈りではないでしょうか。刊行誌「キリスト教保育」6月号のキリスト教保育Q&Aに「寄り添うってどういうこと?」の問いに対して、こんなことが書かれています。「親は人知れずこどもの幸せをひたすら願い、祈る存在です。(中略)私たちは多かれ少なかれ、そのような周囲の「隠れた祈り」によって育まれた気がします。(中略)「隠れた祈り」が積み重なるごとに、あなたの眼差し、表情、ふるまい、行動が変わります。そしてその時、結果として「寄り添う」世界が現れると思うのです。「寄り添う」とは、物理的な距離を縮めることではなく、その人の痛みを自分の痛みとし、その人の幸せを祈り求め続けることに他ならないのですから。」
隠れて祈ることによって、寄り添うことができる…深い示唆を与えられた、と思いました。誰のために「寄り添う」のか。それは自分が評価されるためではなく、不安の中で生きなければならない相手のため。ですから、人知れず、孤独の中で相手のことを想うことが、寄り添う気持ちを増幅させていくために必要なことなのかもしれませんね。 こどもも大人も生きていれば、いろいろなことで不安を抱えることもあると思います。けれども、そんな時、寄り添える私たちでありたいと願っています。
(園長 横山 牧人)