2019年度11月の園長便り
「自然とは・・・」
青梅幼稚園のホームページが新しくなりました。
何より目を引くのはこども達の表情の美しさではないでしょうか。5月31日(金)のあまがさすの森、6月26日(水)の日常、どちらもカメラマンの曽田夕紀子さんに撮っていただきました。奥多摩にご夫婦で住んでいらっしゃって、自然をこよなく愛する方なのですが、両日ともに撮影終了後、「本当に楽しい撮影でした。いい写真が撮れていると思います。幸せな気分です」と言って帰って行かれました。後日、森の中での写真を見た時に「やはり自然はいい!」と思いました。緑豊かな中でこども達の表情も美しく、いきいきとしていたからです。次に幼稚園での日常の写真を見た時「あれ⁉」と思いました。私は「森の写真よりは劣るだろう」と先入観を持っていたことに気付かされたのですが、日常の写真も森の写真に負けず劣らず美しいものばかりでした。何よりもこども達の表情が自然でいきいきとしていたところに感動しました。自然の中…自然な表情…自然っていったい何なのでしょうか。
「自然」という言葉はとても不思議です。私はつい最近まで知らなかったのですが、「大自然」「自然環境」のように私たちがイメージする「自然」という言葉は実は明治以降に作られた翻訳語、つまり輸入された言葉なのだそうです。「社会」「自由」「個人」「権利」「存在」「近代」「恋愛」「彼、彼女」「美」も明治期に新しく造られた言葉のようですが、こんなに自然の溢れる日本にいながら私たちの祖先が自然を指す言葉がなかったなんて信じられませんよね。みなさんは「天地自然」と聞いてどのように理解するでしょうか。ほとんどの方は「天地という自然」、と名詞として解釈すると思います。しかし明治時代の前半まで、ほとんどの日本人は「天地は自然である」という意味にしかとれなかったというのです。つまり自然という言葉はもともと「みずからの力でうみだすもの」「おのずからなるもの」という意味しかなかったということなのです。英語でいえば「ナチュラル」の意味での「自然」はあったが、「ネイチャー」の意味での「自然」は最近にできた言葉ということです。古来から日本で使われてきた「自然」という言葉は奈良時代 西暦721年からだそうですが(「常陸国風土記」の中で「自然に貧しさを免れる」と初めて書物に現れた)、中国から漢字が伝わってきた当時、老子や荘子の説いた無為自然という考え方がありました。つまり現代語に置き換えて言うならば「自然は自然のままであるときに、本来のあり方を現し、人間の生きる手本となる」そんな考え方があったということです。
天地を外から見た「自然」と本来のあり方を示す「自然」。そのどちらも美しく、人の心を惹きつけるものだと思います。改めて、曽田さんの撮られた写真を見返すと「自然」というキーワードが浮かび上がり、その美しさと同時にこども達がそこで活動している素晴らしさも感じることができると思います。幼稚園での撮影の日、カメラマンの他にホームページを制作して下さった方も一緒でしたが、「今日の撮影に立ち会って、自分が満たされた気がした。こども達が素晴らしい!」と言っておられました。心から嬉しく思いました。大人の都合よく動けるようにこども達をなんとかするのではなく、私たちは自ら育つものを育てようとする心「育てのこころ」を大切に、これからも保育にあたっていこうと思いました。
(園長 横山 牧人)